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近代たばこ産業を創った実業家・村井吉兵衛の人物と業績を 約150点の資料で紹介!「明治のたばこ王 村井吉兵衛」展  たばこと塩の博物館(東京・墨田区)で10月31日~1月24日開催

たばこと塩の博物館では、2020年10月31日(土)から2021年1月24日(日)まで、「明治のたばこ王 村井吉兵衛」展を開催します。

村井吉兵衛(1864-1926)は、たばこが専売制になる1904年(明治37)以前に国内最大手だったたばこ業者です。京都のたばこ商の家に生まれた吉兵衛は、将来有望と見込んだ人物を引き入れて「村井兄弟商会」を設立し、アメリカの技術を学んでシガレット(紙巻きたばこ)の製造に乗り出します。1891年(明治24)に「サンライス」、1894年(明治27)には「ヒーロー」を発売し、同じく大手たばこ業者だった岩谷松平や千葉松兵衛と「明治たばこ宣伝合戦」を繰り広げました。さらに1899年(明治32)には葉たばこ産地のアメリカで勢力を増していたアメリカン・タバコ社と資本提携を結ぶなど、その斬新で大胆な経営は日本の産業界に大きな影響を与えました。たばこ専売制の施行によってたばこ業から撤退した後は、銀行を足がかりに鉱業や農場経営など様々な事業に着手し、政財界に幅広い人脈を築きました。当時の実業界では、渋沢栄一や岩崎弥太郎に匹敵する人物として評価されていましたが、今日ではその名を知る人は多くない“隠れた偉人”といえます。

本展は6つの章とエピローグで構成します。たばこパッケージや看板・ポスターなどの多彩な館蔵資料から、村井兄弟商会を中心とした明治のたばこ産業について紹介するとともに、文書や写真などから吉兵衛が興した事業や一族の足跡をたどります。約150点の資料を通して、近代たばこ産業を創った実業家・村井吉兵衛の人物と業績を紹介します。


Photo.01 村井吉兵衛の写真 個人蔵



■開催概要

名称  : 「明治のたばこ王 村井吉兵衛」

ヨミ  : メイジノタバコオウ ムライキチベエ

会期  : 2020年10月31日(土)~2021年1月24日(日)

主催  : たばこと塩の博物館

会場  : たばこと塩の博物館 2階特別展示室

所在地 : 東京都墨田区横川1-16-3(とうきょうスカイツリー駅から徒歩8分)

電話  : 03-3622-8801

FAX   : 03-3622-8807

URL   : https://www.tabashio.jp

入館料 : 大人・大学生:100円/満65歳以上の方(要証明書):50円

      小・中・高校生:50円

      ※なるべく少人数でのご来館をお願いします。

開館時間: 午前11時~午後5時(入館は午後4時30分まで)

休館日 : 月曜日(但し11/23、1/11は開館)、11/24(火)、

      12/28(月)~1/4(月)、1/12(火)



■第I章 シガレットとの出会い

村井吉兵衛の実家は、加賀藩鶴来村(現在の石川県白山市)で蚕紙・漆・たばこなどを商っていましたが、吉兵衛の父の代で京都に拠点を移したとされています。吉兵衛は1864年(文久4)京都で生まれ、9歳で分家に養子に出されました。少年時代から養父とたばこの行商で経験を積んでいく中で、小さなたばこ商で終わりたくないという思いを強くしていきました。

当時の日本では、刻みたばこをきせるで吸う江戸時代からの喫煙法が主流でしたが、開港後にもたらされたシガレットが都市部を中心に少しずつ受け入れられ、国内での製造も始まりました。吉兵衛はシガレットの製造に目をつけて、事業の基礎にしようと考えます。

本章では、若年期の吉兵衛を文書で紹介するとともに、当時の輸入たばこのポスターや、国内でのたばこ製造に関わる資料などを紹介します。


Photo.02 ポスター「CAMEO」 アメリカン・タバコ社 1892年(明治25)頃

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■第II章 村井兄弟商会の始まり

吉兵衛は洋書などから独学でシガレットの製造法を会得し、1891年(明治24)に両切たばこ「サンライス」を製造・販売、吉兵衛のたばこ業が飛躍するきっかけとなりました。両切たばこという、日本ではまだ普及していないタイプのシガレットで、英語名の銘柄であることも珍しく、「サンライス」は大人気となりました。「サンライス」での成功後、吉兵衛はアメリカに渡り、製造法や原料である葉たばこを視察、葉たばこの買い付けも行いました。帰国後にはさらに研究を重ね、1894年(明治27)にはアメリカ産葉たばこをブレンドした初の両切たばこ「ヒーロー」を発売、さらに名声を高めました。

吉兵衛は、有望な人物を養子などとして村井家の一員に加えつつ、「ヒーロー」発売と同じ1894年に「合名会社村井兄弟商会」を設立しました。海外経験を有する人物を経営陣に引き入れたことで、積極的に海外と取引を行う社風が築かれていきました。

順調に業績を伸ばす中、村井兄弟商会は、1895年(明治28)に京都で開催された第四回内国勧業博覧会に自社の商品を初めて出品します。結果「サンライス」「ヒーロー」がともに有功一等賞を獲得し、村井の名声はさらに高まりました。

本章では、サンライスやヒーローなどのパッケージを始め、順調に礎が築かれつつある村井の事業の様子、その反面、奇抜な宣伝で、社会から批判を浴びたことを示す資料などを紹介します。


Photo.03 「サンライス」(両切たばこ) 村井兄弟商会 1891年(明治24)発売

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Photo.04 「ヒーロー」(両切たばこ) 村井兄弟商会 1894年(明治27)発売

両切たばこは端まで葉が詰まっている形態で、喫煙時に葉が口に入りやすいため、シガレットと一緒に厚紙製のホルダーが入っていた。

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■第III章 明治たばこ宣伝合戦

1899年(明治32)、村井兄弟商会はアメリカン・タバコ社と資本提携し、「株式会社村井兄弟商会」を設立、巨大な外国資本を背景に、工場の機械化を進め、販売量を伸ばしていきました。急成長を遂げる村井兄弟商会に対し、対抗したのがもう一人のたばこ王・岩谷松平の岩谷商会でした。

「国益の親玉」を自称する岩谷松平は、輸入葉を使用している村井に対し、国産葉を使用していることを強調、「国益天狗」「愛国天狗」「輸入退治天狗」という名前のたばこを発売、人目を引くキャッチフレーズを使って村井に対抗します。

「天狗の岩谷とヒーローの村井の戦い」は「東vs西」「赤vs白」「口付vs両切」「和vs洋」など、互いを意識しながら、最先端の技術を使って印刷したパッケージやポスター、看板、引札、新聞・雑誌広告、宣伝隊といった、当時考えられるありとあらゆる広告媒体を駆使して繰り広げられました。また、パッケージ印刷のため、村井が京都に東洋印刷株式会社を設立すれば、岩谷も東京で凸版印刷合資会社(現・凸版印刷株式会社)の設立を支援するなど、苛烈な宣伝合戦は印刷の発展にも影響を及ぼしました。この二者の戦いは、印刷技術の発展や広告の先駆けという意味においても、重要な意味を持っているのです。

本章では、当時繰り広げられた岩谷と村井の「明治たばこ宣伝合戦」の様子を、パッケージやポスター、当時の写真で紹介します。


◆岩谷商会◆

工場や店頭をシンボルカラーの赤で染め、「勿驚税金○○万円」などといった人目を引く宣伝文句の看板を掲げた。


Photo.05 「天狗煙草」ポスター 1900年(明治33)頃

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Photo.06 銀座三丁目にあった岩谷商会本店・工場の写真

明治時代、銀座名物として知られていた。正面には巨大な天狗面と「勿驚煙草税金○○万円」の大看板などが掲げられていた。

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Photo.07 岩谷自転車宣伝隊の写真

当時高価で珍しかった自転車を町中に走らせて宣伝を行った。

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◆村井兄弟商会◆

自社の製品に加え、当時日本でも人気のあった「PINHEAD」や「OLDGOLD」などのアメリカン・タバコ社の製品を自社工場で製造し、馬車を連ねた音楽隊のパレードや人気歌舞伎俳優をイメージキャラクターに据えるなど、当時では斬新な手法で宣伝活動を行なった。


Photo.08 「ピーコック」ポスター 1900年(明治33)頃

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Photo.09 村井宣伝隊の写真

音楽隊などを組織して、現在でいうコマーシャルソングを流しながら街中を練り歩いた。

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Photo.10 「オールド高塔」ポスター 1903年(明治36)

1903年に催された第五回内国勧業博覧会は、明治たばこ宣伝合戦の集大成のような意味合いを持っている。村井は自社で製造するアメリカン・タバコ社の製品「OLDGOLD」の名を冠したサーチライト付きの「オールド高塔」を建てて夜間の会場を照らした。このポスターは、「オールド高塔」の高さを誇示するように、印刷したものを縦に3枚つないだ大判で制作している。

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■第IV章 たばこ、製造専売へ

1904年(明治37)、政府により煙草専売法が成立、村井や岩谷など民間のたばこ業者は廃業を余儀なくされました。そのため政府は、国内業者への説得と廃業の補償、さらに、村井兄弟商会の株を保有する英米の株主たちによる廃業補償を求める動きへの対応が求められました。特に、英米とのやりとりは外交問題にまで発展し、最終的に日本政府が多額の補償金を出すことで決着しました。そして、この際に得た補償金は、たばこ業から撤退した後の村井の事業拡大につながっていきます。

本章では、専売に至るまでの経緯を、文書を中心に紹介します。


Photo.11 村井兄弟商会送別会の際の写真(於・芝紅葉館) 1904年(明治37) 個人蔵

廃業に伴って、提携していたアメリカン・タバコ社の日本での代理人は帰国することになった。写真には、代理人と村井家・村井兄弟商会の中心人物が揃って写っている。

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Photo.12 高橋是清著『高橋是清自伝』(千倉書房、1936年)より 写真「日露戦役当時 戦費募債の為めロンドン滞在中」

前列右が是清。是清は日銀副総裁として、日露戦争のための外債募集に奔走していた。村井への補償をめぐる外交交渉が難航した結果、その外債募集をも危ぶむ事態が生じた。

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■第V章 実業家 吉兵衛

煙草専売法の施行により多額の補償金を手に入れた吉兵衛は、銀行を軸に様々な事業に乗り出しました。農林、石油、石炭、紡績、さらには貿易などにも事業は拡大され、国内だけでなく、海外にも展開されました。しかしながら吉兵衛の死の直後に起こった金融恐慌により銀行は休業し、吉兵衛の興した諸事業も村井銀行からの融資に依っていたため、事業や資産の売却を余儀なくされ、村井家は全ての事業を手放すことになりました。村井の手がけた事業が、岩崎弥太郎の「三菱」のように次の世代へ継承されなかったことで、当時の名声が今日に伝わらなかったといえます。

本章では、吉兵衛が興した事業について、写真や文書で紹介します。


Photo.13 村井ビルディングの写真(外観) 1913年(大正2)竣工 個人蔵

日本橋室町の村井ビルディングは村井銀行のほか、石炭・石油採掘や農林場経営を行う村井の会社も入り、たばこ業撤退後の村井の中枢といえる場所だった。

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Photo.14 事業を紹介するコーナー「村井鉱業所」の写真 個人蔵

村井ビルディングの中には、村井の事業をジオラマなどで紹介する展示コーナーもあった。

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■第VI章 社交の力

三井・三菱といった大手財閥や、渋沢栄一・大倉喜八郎のような気鋭の実業家は、政治家・文化人との社交や華族との婚姻関係によって、社会的な地位の向上を図りました。

当時の実業家が行なった社交は、外賓の歓待、茶道や骨董収集のサークル、教育機関への寄付や支援など、国家・社会への貢献や教養のアピールにつながるものでした。小さなたばこ商から身を起こした吉兵衛にとってはなおさら、社交は重要なものでした。

本章では、村井が残した社交の足跡を紹介します。


◆長楽館◆

1901年(明治34)には東京に拠点を移した吉兵衛だったが、国内外の要人を京都でもてなす際の迎賓施設として、円山に別荘を設けた。1909年(明治42)の竣工間もなく、伊藤博文が訪れ、この別荘を「長楽館」と命名し、扁額に揮毫した。長楽館には、井上馨や大隈重信といった国内の政治家をはじめ海外からの来賓も多数訪れた。


◆山王荘◆

1919年(大正9)、吉兵衛は永田町二丁目に新たな邸宅を設けた。官邸・官庁にほど近いこの邸宅は山王荘と呼ばれ、京都の長楽館と同様、多くの要人が訪れる場となった。


Photo.15 山王荘洋館の写真 個人蔵

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Photo.16 渋沢栄一より村井吉兵衛宛書簡 1925年(大正14) 個人蔵

吉兵衛が自身の邸宅である山王荘洋館を日仏会館として貸与したことへの礼状。書簡の中で渋沢は、日頃から「国家公共」のことに深く意を用いている吉兵衛の精神が表れた行いだと、高く評価している。吉兵衛は、村井銀行を設立して以来、渋沢と親交を深めていった。

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◆大本山總持寺◆

吉兵衛は寺院や教育機関に寄付を重ね、支援を行なった。中でも總持寺との関係は深かった。總持寺は元は石川県にあったが、火災で伽藍を消失したことをきっかけに横浜へ移転した。吉兵衛と總持寺との関係は、この移転の際に始まったと考えられる。總持寺には、鐘鼓楼を寄進、さらに自身の収集した仏像・仏具や美術工芸品も数多く寄進した。總持寺に深く帰依した背景には、村井家のルーツが加賀にあったことも影響していると考えられる。


Photo.17 不倒達磨図屏風 鈴木松年筆 明治時代 大本山總持寺蔵 (展示期間:10/31~11/23)

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Photo.18 蔵王権現立像 平安時代 大本山總持寺蔵 (展示期間:11/25~1/24)

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Photo.19 九谷焼茶器 明治時代 大本山總持寺蔵

村井家の家紋である三柏があしらわれた茶器。

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